構造主義とパリジェンヌ(2)




……パッ、






パリジェンヌめっ……。




コレがあの悪名高き「ぱりじぇんぬ」! むかーし浅野素女(パリ在住)のエッセイ
『フランス女』を読んだときは、まさか将来自分にも降りかかるとは思いもせずに
笑って読んだぱりじぇんぬっっっ!!!

と憤懣やる方なきまま、でもパリで過ごしたり、「パリジェンヌでない=フェアでナイスな」
フランス人たちと知り合ったり話したりして思ったのだけれど、オリエンタル(他者)に対する
積極的な理解と、一方の他者への排他性、この二面性はどうしたことなのか?

で、パリジェンヌについて書いたものを読むと、パリジェンヌの、またはパリジェンヌという
言葉に代表される一部のフランス女性の、特徴的な他者への排他性、というのは、
どうやら相手が外国人か否かに関わらず、相手が誰であれそのような「アティテュード」を
よしとしている模様。

そういう(程度の多寡はあれ高慢な)性質が、パリに住む女性としては、その女性的価値を
高めるから、というのがそれを下支えしている価値観のようだ。つまり、男に対してはもち
ろん、一貫して他者に対して「私のほうが上よ。だって、私は『高い女』だから」と誇示する
メンタリティなのだということ。


ま、それはいいや。そういう背景も理解すれば、案外可愛げのあるもんだとも思えて
きたし。今後はそういう珍種なんだと思って扱うしさ。しかし、難儀なふるまいだね……。


構造主義以降の文化人類学の基本で、ある特定のくくりの人々(国民、民族とか、文化
領域でもよし)のふるまい(behavior)は、その生物学的な「人種」ではなく「共有されている
文化と価値観」に根を求めよとありますが、ホント、それがよくわかった。

たとえば子どもに割礼を行う民族は、別に人種としてサディスティックで残虐なわけでも、
人間として邪悪(evil)なわけでも、精神異常でもない。そういう「文化」を共有している
のであって、その文化が共有されているのには、その土地、そこに暮らす彼らなりの
理由があるわけです。だから、文化は善悪の尺度で測ってはいけない、それはナンセンス。

それこそ、偉大なるフランスの人類学/哲学者、レヴィ=ストロースですわ。

ですから、「パリジェンヌ的精神文化」もですね、別に人種としてサディスティックで残虐な
わけでも、人間として邪悪(evil)なわけでも、精神異常でもない。そういう「文化」を共有して
いる……以下略。だから、善悪の尺度で測ってはいけない(笑)。

んで、構造主義思い出しついでに、フランスの、特にパリにおけるオリエンタリズムへの
憧憬と理解、そして受容の根本は、構造主義の広まりと密接なかかわりがあると思う。

構造主義ったら、まんまパリですからね。フランス現代思想のメインストリームです
もんね。

私が見ているものと他者が見ているものは、決して一致しない。どの人間も、視野は
それぞれ異なり、しかももともと全員それぞれにレンズが歪んでいる。見えるものが
すべてだと思ってはいけないし、ましてそれが正しいと思ってもいけない。他者と
「ね、アタシこんなのが見えてるんだけど、あなたはどう?」
と話し合って、そして大勢が一様に「あー、一応、オレもこれが見える」というものが、
その時点で一応の「事実」としての立場を獲得しているだけ。

だから、構造主義は自らヨーロッパ文化至上主義を根本から否定した。西洋史を視点と
した歴史主義は、「世界史の歴史に出てくる順番に、社会も文化も洗練されていく。だから
『未開の地域』を『開いて』やるのは善。だから民主主義と資本主義は最善。テクノロジー
善」と考えているけれど、それは大間違い。どの文化も政治形態も、それぞれの土地で、
それぞれの時代に、それぞれのステージで、現象として現れているだけであって、そこに
価値の高低や善悪を認めない、というのが構造主義

たぶん、それが教育に浸透している点で、パリの、オリエンタリズムへの間口が
広いのではないかと思ったのでした。

そういう背景で、

「日本は『戦後50年で西洋に追いついた、奇跡の東洋の小国』ではない」

というセンテンスを読むと、あぁ、と思うわけなのです。


以上、長文失礼いたしました……。