いくらなんでもそれはダメ親だろう。

ムスコの保育園の会報から「原稿を書け」と言われたので書いた。そういや娘の幼稚園でも、小学校でも、ずっと書いてきたなぁ。毎朝先生に渡す「お知らせノート」みたいなのも、夏休みに親が毎日書く一行日記も、そういや書いてたなぁ。で、ちょっといつも「過剰」な感じなのだ。これは性分かなぁ。
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周章狼狽』 
その日、私は間違いなく弱っていたのだ。
ムスコは四月の入園以来、1歳児クラスでもひときわ目立つ渾身の号泣ぶりを見せ、朝のお別れから午後のお迎えまで、緩急あれど「ママどこ〜」とほぼ泣きっぱなし。帰途から就寝、翌朝まで私にしがみついたままという、混沌(カオス)の只中にあった。
お風呂ひとつ入るにしても、イヤだ入らないと言ってバスルームのドアにしがみつき大騒ぎしたかと思えば、今度は上がる段になってイヤだ上がらない、と床の上で大の字になって泣きわめく。やっとの思いで着替えさせたら、バスルームに走り込んで自分で湯船の蓋を開け、服を脱いで泣きながら湯に入ろうとする。
あぁ彼は怒っているのだ、母との分離への抵抗を、「置いていかれた」困惑を、怒りで私にぶつけているのだと自分に言い聞かせ、親の愛情を試す行為を受け入れてあげようと、思いはする。しかしそれが十日も続けば、堪忍袋の緒も限界マックス。「ちょっといい加減にしなさいよっ!」と、つい声を荒げ、何てオトナげないと自分を責めたりもする。
そんなある日、私の仕事の事情で保育時間を延長しなければいけなくなった。普段の保育時間でも彼の忍耐は限界なのに、延長なんてできるんだろうか。あぁ心配だ、心の底から心配だ。第一、先生がたにかけてしまう負担はどうだ。いつも笑顔で元気に振舞ってくださるが、内心へとへとなのではないだろうか。もう勘弁してよ、なんて気持ちでいらっしゃったりしないだろうか。
もちろんプロ意識の高い先生がたにそんなことがあるはずはないと知ってはいるのだが、小さいモンスターに振り回される日々に生気を抜かれていた私は、すっかりネガティブ思考に陥っていた。
朝のお別れで
「今日は延長ですので、宜しくお願いします……」
と下げた頭が重い。足を引きずるようにして園を後にし、家へ向かって歩き始めた私の背後から、突然「悪い親」の三文字が襲ってきた。
そうか、これか。上の子を十年以上お気楽に育ててきたが、自分を「ダメな親だ」と思うことは百万回あっても、良い悪いで考えたことはなかった。噂に聞いた「私は悪い親だろうか」という感情に自分も陥ったことに、素直に驚く。
書斎で締め切りの迫った原稿に着手するが、集中できず、はかどらない。万事休す、と編集部に締め切り引き伸ばしを懇願する電話をかけ、受話器を置いたその手で化粧を猛スピードで済ませ、電車に飛び乗る。
取材先で、芸能人が終了時間を過ぎてもとうとうと自説を語るのをじりじりとした思いで聴き、受付を走り出るときに首から提げたプレス証を返却するつもりで、ネックレスの方を渡して笑われる。玄関ロビーで名刺をバラバラと散らかし、通りがかりの親切なビジネスマンに手伝ってもらう。息子を迎えに行かなきゃ。早く早く。
走りこんだ電車の車内で、深いため息をついてつり革を握った腕にふと目をやると、腕時計を二つはめているのに気が付いた。隣に立っているビジネスマンと目が合って、「見ちゃった?」という感じの照れ笑いをしてごまかす。
周章狼狽(うろたえ騒ぐこと)。こと子どものこととなると、親はこんなにも我を失うのだ。ひとり笑いが止まらなくなって、うっかり「ぐふ」と声を上げたら、車内は混雑していたのに周りにドーナツ状の空間ができた。ご迷惑さま。