皮一枚の宇宙。(ラストメルマガ)

勿論皆さんのご想像に違わず、それはそれは愛くるしく純粋無垢な(事実無根)幼いカワサキに向かって、ウチの母は食卓のソーセージ炒めをひょいと箸でつまみ上げ、こう言い垂れたのだった。「人間ってね」、

「みんなソーセージなの。皮一枚で包まれた中身は、みんなぐっちゃぐちゃの宇宙なのよ」。 

そう言いながらソーセージをぶちりと噛み切り、ムッシャムッシャと喰らう母の底知れず恐ろしげな口元を凝視しつつ、私はその教えをご飯と共にごくりと飲み込んだ。

「人、みなソーセージである」を心に刻んだ、幼く夢見がちなソーセージは、やがて微熱気味のソーセージとなり、やがては若さと致し方なく有り余るエネルギーに甘えた、アグレッシブなソーセージとなる。
 
混沌とした宇宙を内包しながら、外側の皮だけが面の皮と同様に厚みを増し、歯ごたえを超越してゴリゴリゴツゴツと成長した。分厚い皮で武装したソーセージは、それだけで強そうに見える。正しそうに見える。努力して叶わないものなんて何にもない、そう断じるソーセージ。でも本当は、中身はいつもぐっちゃぐちゃの宇宙。
 
いつごろだったか、ソーセージは傷んでいった。きっかけは何だかよくわからない。多分私としては「より良くなろう」と努力していたのだけれど、どこかで他の人の宇宙をないがしろにしていたのだろうと思う。あるいは、ようやく努力なんかでどうにもならない何かにぶつかったのかもしれない。それは、「他人」であり「社会」であり、「結婚」であり「家族」であり、「配偶者」であり「子ども」であり、つまるところ「自分の宇宙」の問題だった。

分厚いはずの皮が傷み、破れ、綻び、輪郭さえもおぼつかなくなった。世を妬んで恨んで、自分以外の誰かや何かのせいにしたくなった。小娘が溺れた沼は、深かった。
 
あるときソーセージは、国道沿いのファストフード店の片隅で薄いコーヒーを一口すすり、空(くう)を見上げ、ため息をついて、手元の紙ナプキンに
 
"Nobody needs me."

と書き付けた。実際のところ、誰も私なんか必要としていない。一生まるごと全部「なかったこと」だったら誰にも迷惑をかけなかったのに。人も傷つけないし、傷つくこともなかったのに。紙ナプキンの上に黒々と書かれた文字を見つめ、そのまま動けなくなった。

大人になるということは、得るものも失うものも沢山ありすぎて、思っていたよりもしんどいことだった。
 
しかしソーセージは、大層しぶとかった(笑)。そのまま消えてなくなってしまったりは、しないのだった。ソーセージは、ものを書くことを思い出した。誰かに向かって発信することを覚えた。誉めてもらうと、がんばれる。ひたすら書き続けるなかで、輪郭を取り戻していった。でもやっぱり、中身はぐっちゃぐちゃの宇宙のままだったのだけれど。

そして思う。8年前、電話で「何でもいいから」書いてみないかと誘われた私が、実は専門でもなんでもない「子育て」を自分から申し出たのは、結局それが当時の私にとって一番の悩みであり関心事だったからなのだと。自分自身決して器用ではなくクソ真面目だからこそ、いつも「皆さん、子育ては脱力でいきましょう」と呪文のように唱えていたのだと。 

どんな宇宙を抱える人も、きっとその人なりの表現の方法があるはずだ。ぬるいお風呂に浸かりながら幼い息子を抱きかかえていると、この子も皮一枚の宇宙なのだと思う。この柔らかくすべすべの肌の中に、彼の小宇宙が限りなく広がっているのだと。娘が幼いときにも、やはりそう思った。

あなたもきっと、そんな皮一枚の宇宙だ。深遠な宇宙があなた自身、そして皮とはあなたとヨノナカの「付き合い方」。歯ごたえのある元気な皮も、いまも成長し続ける宇宙も、どちらもナマモノ。母になったからと言って完成するものでは全くない。30や40になったから完成するものでもない。一生ずっと、「ナマ」の自分と付き合っていくのである。

あなたに宇宙があるように、他の誰にも宇宙がある。そんな宇宙を自分の体からひねり出したことに、母は誇りを持っていい。

そんなことを考えつつ、ウチの母に「お母さん、人間はみんなソーセージだって昔話してくれたよね」としみじみ言ったら、母は「そうだっけぇ?」と大あくびしてた。

【All About「子育て事情」ラストメルマガ131号 2008/03/25】