藪(やぶ)の中へ。

このところ、心に引っ掛かって取れなかった言葉があった。

それは、藪(やぶ)。

 

先日の「赤玉」なる怪しい集会にて、憧れのAll About「散歩」ガイド増田さんが、ふと会話の中で

「あそこは藪もあるし、いいじゃないですか」

とおっしゃったのが、何故か酔っ払って憑依状態の私の記憶に鮮明に残り。

 

さらに翌日、日経最終面に載っていた作家・星野智幸氏のエッセイにも「藪」の言葉が象徴的に出現し、このシンクロニシティにすっかり心を奪われた私のもの思い(正しくは妄想という)のテーマは、以来3日ほど「藪」一色だった。

 

星野智幸氏のエッセイには、「人の管理の及ばないまま繁茂している」「まがまがしい」藪がやがて失われ、小奇麗な「ファンタジーの街」へと変化して行く様子が描かれる。

 

「舞台装置のような書き割りめいた明るさ」に支配された、郊外の高台のファンタジー社会学系の語り手が郊外を語る上で、「書き割り」や「家族神話」、「演技のハコ」という言葉は頻繁に使われてきてはいるが、もともと郊外で育った子どもたちが大人になり、より凝縮されたファンタジーを求めて「書き割りの街」で子育てをしにやって来るというこの作家の指摘は、私が常日頃感じているものをドンピシャリと言い当てていて、すっかり頭の中を持っていかれてしまった。

 

星野氏自らが育ったという、横浜市北部の「プール付き11階建て高層マンション(1970年代当時)」には、かなりの確度で心当たりがある。そこは、私の小学校の級友が住んでいたマンションだ。夏休みに、そこのプールに入りついでにお誕生日会をするというので、お呼ばれにあずかった覚えがある。

 

当時画期的だった高級マンションの5階から見渡すは、緑鮮やかな田畑(でんぱた)、そして程近くに東名高速の料金所。小学生だった私たちは

「ここ何階?」

「5階だよ」

「こわーい、学校よりも高いんじゃん。下見れなーい」

みたいな会話をして、

「じゃ、宿題も終わってるし、漫画読もっか」

と、部屋でそれぞれ好き勝手に漫画を読み耽るのだった。

 

そうやって、郊外のファンタジーの中で育った層が、「南仏風」や「地中海の街」といった、より濃いファンタジーの中で郊外第3世代を育てている。その第3世代の現実感について、星野氏が

「彼らのリアリティーが、インターネットの中のそれと親和的なのもうなずける」

としている点に大変に共感しつつ、同じく郊外育ちの私は、既に自分の記憶の中でも藪の存在が薄いことに気づく。

 

大人たちが、藪や森や裏山へ行ってはいけないと子どもたちに言い含めたのは、そこに何かが隠れているからだ。幸せと夢を求めて上京した郊外第1世代の大人たち。多くは団塊の世代、もしくは全共闘世代だった彼らは、いまニートだパラサイトだとの事態を前に「私たちの子育ては失敗だった」との思いを共有しているというから皮肉だ。

 

藪の中には、彼ら大人が子どもに見せたくなかった、そして彼ら自身がずっと忘れたふりをし続けた、何かが埋められている。「藪の中に入ってはいけない」と中壮年期を書き割りの街で過ごし、いま定年を迎えた彼らは、この後、藪の中へ踏み入るだろうか。あるいはもう、残り少ない藪は取り払われ、埋められていた「何か」は記憶の奥底へ沈められるのみなのだろうか。

 

そして、郊外で生まれ育った第2世代と第3世代は、自分の街が作られた舞台装置に過ぎないことに気づき、いつか街を出ることができるだろうか。