朔日に思ふ。

昨日の事ではありますが、神無月朔日(10月1日)。

一日(ついたち)のことを朔日(さくじつ)と呼ぶのだとは、
うちの母が3月1日生まれの我が弟に
「朔太郎」
と名付けようとして、区役所に「人名漢字外(当時)」と
拒否され、怒り心頭であったというエピソードから強烈な
印象とともに残っております。

そも息子の名付けに際して「朔太郎」が候補に上がること自体、
いかに元文学少女と言えども不遜もいいところ。
京都市の役人は正しいことをしてくれたものだと、娘として感謝
申し上げたく思うわけです。

しかしどうやら、朔太郎を推したのは母の父、ワタクシの
じーちゃんらしいという話も。大学では菊池寛の薫陶を受け、
元文学青年、ジャーナリストだったじーちゃんは、文学と
イデオロギーを肴にアルコールとニコチンに浸かった日々を
送っていたために、脳に何らかの異常をきたして畏怖心とか
謙虚というものに大いに欠けていたのかもしれませぬ。

じーちゃんは、よく飲みました。夏休みやお正月、大阪(出身は
京都なので、大阪の中でも京都の程近く)の祖父母宅に
泊まりに行くと、そこにはいつも既に出来上がってへべれけの
じーちゃんの姿が。
「おぉーう、よう来た、よう来たな」と、腕と浴衣の裾を広げ、
じーちゃんに抱っこされると煙草のヤニや酒の体内醸成された
臭いがして、辟易したものです。

じーちゃんを知る人が彼について語ることは全て、
「情熱ゆえの無頼」、または「何かと紙一重」。

現役の政治部新聞記者だったころは、夜中にハイヤー
出勤、帰宅も夜中。戦時中、シンガポール駐留日本軍に
付いて南洋で日本軍を賛美しなければならない記者生活を
送った悔悛は彼を民主思想へと激しく駆り立て、
夜討ち朝駆けで日本の政治を追い続ける様はまさに
鬼だったとか。

しかし、思想的に濃度を増すにつれて、彼の行動は
周囲の理解を得られなくなってゆくのです。戦後、手の
ひらを返したようにリベラル化し、民主主義万歳を
唱えるようになった新聞社内にあって、さらに民主主義
思想を凝縮したような彼の記事が増えていきます。

同僚や部下達と街で酒を飲み交わしては政治や哲学や文学について
熱く語り、そのままハイヤーで自宅へ連れ帰る。たたき起こした
妻や子どもたちに酒の席を用意させ、夜中だというのに
子どもたちを同席させて、おいお前、タカヤナギ君は非常に優秀な
新聞記者だから政治の話を聞かせてもらいなさいなどと
聴講を強要。でも母は、そこで聞きかじって学んだことは
大きかったと振り返ります。

じーちゃんは社内「左派」の先鋒として、社を相手に闘う
労働組合委員長に担ぎ上げられ、労使交渉決裂の末には、
A新聞社史上初めて「輪転機を止めた男」となりました。

「大阪本社の某は狂っとる」

その言葉は、じーちゃんには名誉と響いたかもしれません。
いずれにせよ、彼はその後主要な部署からは全く声がかから
なくなり、いつしか週刊誌へと回され、囲碁対局の解説記事
などを任されたりするようになり、そのまま静かに引退する
のです。

引退後は、時々近所の奥様連中に得意のテニスを教え、
大好きな魚料理を突きながら朝に昼に晩にとビールや
日本酒を絶え間なく口に運び、腹がくちくなると自室の
万年床で「わかば」という煙草を咥えながら新聞や本を熟読。
そのまま意識を失い、起きるなり夕方の風呂を使って、
残り少ない髪をべったりと頭皮に張り付けたまま、
「おい、君ら花札やったことあるか」と
孫に声をかけ、年季の入った花札の箱を出して来る。

やったことあるかも何も、じーちゃんちに行くたびに
相手をさせられるのだから、私も弟も小学生ながら
かなりの腕前に鍛えられ、並大抵の勝負じゃ負けません。

「むっ、やるな。そうか、じゃぁ賭け花札で行くか」
と、しかしじーちゃんは上手に負けてみせて、さりげなく
孫のお小遣いにしてくれるのでした。

じーちゃんは、「あれは胃がんか肺がんでダメになる」という
大方の見解を覆し、すい臓がんで世を去りました。
70過ぎでの他界ですから、いかにも早い。しかし誰もが
仕方ないというか、そんなもんだというか、寧ろよく70過ぎ
たもんや長生きちゃうか、というくらいに好意的に評価して
いたので、本人はそれで幸せだったかもしれません。

ちなみに、先日の新聞記事では
「アルコールを少量摂取して顔が赤くなる体質の人は
そのまま摂取を続けるとすい臓がんになるリスクが通常の1.5倍」
だとかで。

あぁそういえば、じーちゃんってばちょっと飲めば真っ赤になる
人だったなぁ。真っ赤になるのにあんなに飲んでたんだなぁ。
本当は弱かったんじゃないかしら。弱いくせに、どうして
あんなに自分を痛めつけるような飲み方をしたのか。飲まずに
いられない何かがあったんやろか。

でも私には、なんとなく分かるような気がするのです。
これを飲んだら自分はもっといいものが書ける、もっと
善い人間になれる、きっとそんな風に思っていたのじゃないか。

酒は恐怖や緊張を和らげるから、恐怖と緊張の強い性格と闘う
ために飲んでいたのじゃないか。実際、じーちゃんの書くものも
しゃべることも、とても情熱的でしたが、本人は強い吃音
を持っていました。子どもの頃はそれがじーちゃんの個性だと
思っていましたが、彼は生涯を通して自分の意見を言うことへの
恐れと闘っていたのかもしれません。

中島らもが昔、朝日で連載していた『中島らもの明るい悩み
相談室』というコラムを指して、
「らもはええ。らもの書くもんはええ」
とくり返していたじーちゃん。らもさんだって、あんな結末です。
アル中同士、共鳴する何かがあったのかなぁ。

じーちゃんの死後、祖母がじーちゃんの思い出話をしながら
「お酒はね、心が弱いひとの飲み物よ」
と言っていたのを思い出します。その彼女も暫くして、
じーちゃんに会いに頭の中で散歩に出かけてしまうように
なり、やがて逝ってしまうのですが、

残された私も、そんなことを全部覚えているのに、やはり
お酒が好きみたいです。いけないね。